「ツキガクレ」

空の月は満ちて、眩しいほどの光を下界に降らせている。
先刻、ボルスから奪い取った酒瓶を片手に提げていたパーシヴァルは空を振り仰ぎ、月光のまばゆさに目を細めた。
月見酒には、もってこいの晩だ。
明日、いよいよブラス城に帰還するにあたり、今夜のゼクセン騎士団の者たちは、身分の上下に関係なく、酒宴で杯を交し合っていた。
長い期間に及んだ戦闘を生き抜いた者だけが味わうことのできる酒だった。生き残ったことへの感謝と、死んでいった戦友に捧げる弔い酒とが交互に飲み干され、宴は夜更けになっても続いた。
誉れ高き六騎士たちも例外ではなく、クリスを除いた五人は、男同士でこころおきなく酒を飲み、談笑していた。真っ先に酔いつぶれたのはボルスで、次いでレオが大きないびきをかいて眠り始めた。
サロメとロランは、あれほど飲んだ酒が全く応えた様子もなく、淡々と飲み続けている。酒に弱い訳ではないが、これ以上彼らに付き合っていると酒が明日に残りそうだったので、パーシヴァルは二人に断って宴を中座した。
部屋を出るときの、意味ありげなサロメの視線に気付いていたが、パーシヴァルはあえて気付かなかったふりをして部屋を出た。
サロメが何を言いたかったのかは、分かっていた。
昼間、クリスに告げた事を、彼は知っているのだ。
しかしそのことについて、サロメと交わすべき言葉はなかった。
ビュッデヒュッケ城の地下を抜け、城に接した船の甲板に向かいながら、パーシヴァルは昼間のクリスの様子を思い返していた。
クリスは、パーシヴァルの言葉に驚いていたが、ある程度の予想はしていたようだった。パーシヴァルに動揺を見せまいと冷静さを装おうとしていたが、あまり成功していなかった。何か言いたげだったが、最後まで言葉は出てこないままだった。
ふと、パーシヴァルは苦笑した。
クリスが引き止めてくれないかと、内心で期待していたのだ。引き止められたところで決心を翻す気はなかったのだが、手前勝手な期待は外れてしまった。
パーシヴァルは小さく息を吐き、それで気分を切り替えた。この城で過ごす最後の晩に、一人で酒を飲むのも悪くない。兵士たちは皆、城のほうで騒いでいる。この時刻に船で酒を飲もうという輩はいない筈だった。
船の中の階段を上がって甲板に出たパーシヴァルは、満月から降り注ぐ月光で、周囲が白く照らされている様を満足げに見渡した。
視界の先には、穏やかな水面に月の光が反射する湖が見える。
何気なく周囲を見回していたパーシヴァルは、舳先の方に一人の先客を見つけ、思わぬ偶然に驚いた。
他の誰とも見まごう筈のない、見事な銀髪の持ち主が、手すりの側に寄って、湖の方を見やっている背中を見つけたのだ。
どう対処すべきか迷ったのはほんの一瞬で、パーシヴァルはこの幸運に感謝しつつ、その人物の側に近づいていった。
「クリス様」
背中を向けて立っている騎士団長に声をかけたが、パーシヴァルの声に気付いた様子はない。それどころか、パーシヴァルの気配にも気付いていないようだった。
珍しいこともあるものだ、と思いながら、もう一度声を掛けようとしたとき、クリスは長い溜め息をついて呟いた。
「さみしい……のかな、私は」
その小さな独り言を聞き逃さず、パーシヴァルはふっと笑って返事を返してやった。
「私がいなくなるからですか?」
「なっ……」
案の定、誰もいないと思っていたらしく、クリスの華奢な背中は一気に固まった。
そして恐る恐るといった感じで、こちらを振り返ってくる。パーシヴァルはクリスに笑いかけた。安堵と驚きの入り混じった表情で、クリスはパーシヴァルに向かい合った。
「……何故ここにいる?」
「何でといわれましても、月夜の散歩です。湖を見に来たらクリス様からいらっしゃるので、先ほどから声をかけても気づいていただけなかったのですが」
「そ、そうだったか?」
クリスの顔が、独り言を聞かれた恥ずかしさでほんのりと赤くなったのを見て、パーシヴァルは普段は大の男を打ち負かす女団長の可愛らしさを微笑ましく見つめた。
居たたまれなさにクリスがその場を逃げ出そうとしているのに気付き、パーシヴァルは持参していた酒瓶をクリスに向かって差し出した。
「せっかくですから、飲んでいきませんか。祝い酒ですよ」
クリスと二人きりになれる滅多にない機会を、みすみす逃すつもりはない。
「え……」
戸惑っているクリスに、もう一押しした。
「ここで飲めるのも、今夜限りです」
含みを持たせた言葉に、クリスは聡く反応した。こちらを見つめ返してくるので、パーシヴァルは笑みを返した。クリスの表情にはまだ迷いがあったが、ほどなくパーシヴァルは承諾の返事を勝ち取ることができた。
「杯がなくて、申し訳ないんですが」
そう断りを入れた上で、パーシヴァルは栓を抜いた酒瓶を、差し向かいに座ったクリスに向かって差し出した。
「別に、大丈夫だ」
慣れた様子で頷き、クリスは受け取った酒瓶の口に直接口を寄せてそれを飲み干した。
「美味いな」
「ボルス卿から戴いたんですよ。この日の為の、とっておきの一本だそうです」
クリスから返された酒瓶に、同じようにしてパーシヴァルも口をつける。
「そういえば、ボルス達とは飲まなくていいのか?」
気を遣ったらしいクリスの言葉に、パーシヴァルは苦笑して首を振った。
「もう、先刻付き合いました。まだサロメ殿とロラン殿は飲んでるようですが、他は全滅です。いつまでも付き合っていると、私まで潰れそうなので、逃げ出してきたんですよ」
そこまで言いかけて、パーシヴァルはこの夜更けにクリスが一人でいることに不審を感じた。
「クリス様こそ、お一人で出歩かれるのは危ないですよ」
「ルイスが付いてくると言ったんだが、断ったんだ。明日は早いから早めに寝かせてやりたかったし、それに……」
言葉を途中で切って、クリスは口を閉ざした。躊躇いを含んだ言葉を、湖に視線をそらして付け足した。
「……それに、一人で考えたいこともあったんだ」
「何ですか」
パーシヴァルの顔を見ようとせず、クリスは小さな声で言った。
「……お前のことだ」
「……」
何と言って返したものかと、パーシヴァルは酒を口に含んで黙り込んだ。
パーシヴァルが沈黙している間、クリスはずっと考えていたらしいことを、少しずつ語りだした。
「考えても、上手くいえないんだが……」
言葉を捜しながら、クリスはぽつりぽつりと話を継いだ。
「今まで、お前にはよく支えてもらったと思っている。未熟な私が、それでもなんとかやってこれたのは、サロメ達や、お前のお陰だと、私は誰に言われるまでもなく、知っている。……ただ、私はお前に頼りすぎたんじゃないかと思う。お前が去ると聞いたとき、私は……嫌だ、と思った」
俯き加減なクリスの整った顔にも、等しく月光は降り注いでいる。長いまつげが時折揺れて影を落とすのを、パーシヴァルは見るともなく眺めていた。
「何を言っているんだろうな、私は……」
自分の語った言葉に戸惑っているクリスの様子に、パーシヴァルは淡く苦笑した。
その何気ない言葉がどれほどパーシヴァルの心に染み込むのか、クリスはまるで分かっていないのだから、たちが悪い。
「クリス様、その言い方はまるで、愛の告白ですよ」
「えっ……、いや、私は……」
思いがけぬ事を指摘されたからなのか、うろたえるクリスの様子を静かに見つめたパーシヴァルは、柔らかく笑み、全く違うことを口にした。
「そんな薄着で冷えませんか、クリス様」
「え、あ、ああ。そうだな、少し寒いかな」
クリスが上の空で答えるのを聞き、パーシヴァルはおもむろに自分が羽織っていた上着を脱いだ。
「クリス様、これを。湖からの風は冷たいですから」
「あ、ああ……ありがとう」
昼間の暖かさとは違い、夜はかなり冷え込むのに、クリスは軽装のままで、いかにも寒そうだった。
しかし、パーシヴァルはクリスに上着を手渡さず、腰を上げて立ち上がると、クリスの後ろに回って上着を着せ掛けようとした。
パーシヴァルはクリスの真後ろに屈み込み、丁寧な動作で自分が脱いだばかりの上着を着せ掛けた。されるままに大人しくしていたクリスは赤い顔を隠そうとして俯いている。むき出しになった白いうなじに銀のほつれ髪がかかり、月光を弾いて鈍く光っていた。「銀の乙女」として勇名を馳せる騎士は、しかしこれほど華奢な身体の女性でもあった。
と、気配を感じたのか、クリスが肩越しにパーシヴァルを振り返りかけた。
……それは、クリスの藤色の瞳に映る満月をもっとよく見ようとして、覗き込むようにして殆ど無意識にしてしまったことだった。
クリスの桜色の唇は柔らかな温もりを含み、パーシヴァルに離れがたさを呼び起こさせる。
「パーシヴァル……」
パーシヴァルの顔が離れた後、クリスが呆然と呟くのを聞き、パーシヴァルは思わず内心で苦笑いをした。
「ご無礼を」
すっと側を離れ、元の位置に戻って腰を下ろしたパーシヴァルは、途方に暮れるクリスの様子を見つめた。
するつもりはなかったと言えば、余計困らせると分かっていたので、パーシヴァルはそのことは告げなかった。
ほんの一瞬、自制をなくしただけでこの結果だ。
騎士としての誓いを、男の性で破るのは、パーシヴァルの本意ではなかった。
「クリス様が、あまりに可愛いことをおっしゃるので、つい」
「つい……、ついって、パーシヴァル」
混乱したままのクリスが呟くのを聞き、パーシヴァルは落ち着かせようと穏やかに笑いかけた。
「私の誓いを、覚えていますか」
クリスは、小さく頷いた。
「一度誓った以上、生涯有効ですよ。つまり、その逆はありえなくとも、私の命は、尽きるまであなたのものです」
いとおしいとも、慈しみに似たものも、クリスに対して抱いている。それと同時に、掛け値なしの尊敬と、敬愛も感じていた。それらは全て、騎士団長としてのクリスに捧げたものだ。彼女自身が望まない限り、「女」として扱うまいと思っていたのだが…。
その自戒をあっさりと破ってしまった自分に、パーシヴァルはただ苦笑するしかなかった。
「飲みますか?」
パーシヴァルは酒瓶をクリスに差し出した。それを迷いなく掴み、クリスは一気に酒を流し込んだ。
「パーシヴァル、私は……」
迷いながらいいさしたクリスの言葉を、パーシヴァルは自分の言葉で差し止めた。
「戻ってきますよ、クリス様。あなたが私を必要として下さる時がくれば、必ず」
静かに、しかし言葉の底に意志の強さを込めて、もう一度繰り返した。
「必ず、です」
その約束が、遠い先の己に対してどんな結果をもたらすかパーシヴァルは薄々自覚しながらも、言葉を繰り返していた。このまま別れを告げられはしなかった。
これほどの執着をパーシヴァルに持たせた本人は、それを知る由もなく、困惑しながらも、いつものパーシヴァルの態度に正直な安堵を除かせている。
それを見るうち、先刻の柔らかな感触がよぎって、ほんの微かにパーシヴァルは唇を噛み締めた。
やがて、クリスは迷いながらもそっとパーシヴァルに問いかけた。
「……戻ってくるな?」
「お望みとあらば」
その応えを聞き、クリスはやっと不器用な微笑を見せた。
「何年かかってもいい、また戻ってきて欲しい。……待っているから」
パーシヴァルは、内面を悟らせることなく、穏やかな笑顔でクリスに微笑みかけた。
・・・THE END・・・